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一.運命について
2.運命の理法
(1) <運命の母体は汝なり 故に運命の製造者は汝なり>
辞典によれば、「運命とは、人の意志を超越して幸・不幸をもたらす力。またその力によって起こされる状態、めぐり合わせ」とあります。
確かにこの考え方も間違ってはいませんが、これは運命的現象のうわべだけをみた概念です。
運命を見つめる上で見落としてならないことはその個別性です。同じ境遇の中でも人それぞれ己が幸・不幸のとらえ方が違います。いわゆる運命観に相違があるわけです。
同じ土壌に同じ種を蒔いても、咲く花に微妙に個性の違いがあるように、人間の運命も個性的です。したがって人間その人自身、つまり「運命の母体は汝であり、汝こそが運命の製造者」なのです。
(2) <我を知らずして運命の謎を解く事難し>
不幸病気などの事柄をさして運命と言うのではありません。その事柄に遭遇するめぐり合わせを運命と言います。人の身ならずわが身に発生した運命なのですから、我を探究せずしては運命の真実を知ることはできません。
(3) <未解決の事情が人間我を悩ますものではない、事情を造るもの、
これを解き得ざるもの、これに懊悩するものが自ら我を悩ます>
このみおしえにある<もの>こそ我であります。つまり我が我を悩ましているのです。その我自身の開拓が運命開拓の鍵を握っています。
(4) <汝のものは汝のものなり 汝速やかにこれを為せ>
明らかに人から苦しめられているとわかっている事柄でも、自分の身に発生しているものならば、自分自身の運命であり、自分自身を原因として発生しているのです。すべてをわが身に背負い、改善の実践に励まねばなりません。
(5) <運命はその人にかかわりない不可解物ではない
唯来るべきものが来るまでのことである>
運命を偶然の所産と見るか、必然の所産と見るかで運命観が大きく違ってまいります。
飽くまですべては自分を原因として発生している当然の結果なのですから、まず運命を無条件に受け入れることが大切です。そこから運命開拓への道がはじまるのです。
(6) <幸福は汝を訪れず 幸福は汝の訪れを待つ>
むしのいい話ほどこわいものはない。待っているうちに幸福が訪れるなどと期待して、それが裏切られて、不平不満をつのらせ、果ては不幸に泣くのがおちであります。幸福に向かってよろこんで汗を流してみよう、流れる汗に深い幸福を発見できるはずです。
(7) <幸福は待つとも来らず 造れば直ちに来る>
人間の最大の満足は創造のよろこびから得られます。それは生命の深き歓びが自己の成長を確認するところから発生するからです。苦難に遭遇すればする程、造るよろこびへの準備がなされているのです。
(8) <運命の理法は 人為的に是れを齟齬(そご)させる事が出来ない>
むやみに自力自力と頑張っても運命は開拓されません。因果の理法、生命の理法にもとづいてこそ自他力一如の妙智力が発揮されるのです。
(9) <運命開拓為さんと欲せば、果より因に向って逆行せよ>
例えば、子供に心から愛情を注いでいるのに子供から泣かされて、何故こんな運命に遭遇するのだろうか、と結果だけを見て親はなげくものですが、因に向って逆行すれば、自分自身が親を泣かせてきたから、現在になって子供から泣かされているのだという事がわかります。
しかして運命開拓の秘訣は原因の解決にあることを悟ることです。
(10) <幸福を追うより善因を追え 之幸福への道>
目先の幸福ばかりを追い求め、我欲を出しているといつまでたっても幸福には恵まれません。ただただ毎日、善根を積んでおれば、自然に幸福は舞い込んでくるようになっています。
これは道理なのですから、ありとあらゆる運命的現象に当てはまります。しっかり施愛の徳行を積みましょう。
(11) <運命の原理とは行為に因を発し結果として運命上に現れて来る自然の法則>
今日の一挙手一投足の行為が原因となって明日のさまざまな結果が現象します。考えようによっては少し恐ろしい気がしますが、この自然の法則があればこそ、今日の行為を善に改めれば明日の善果の報いは必ず現れるのです。
(12) <憎めば憎み返される 咎むれば 咎め返される
離るれば 彼も又 汝より離れる 敵と見れば 彼も又 汝を敵とす
汝苦しめば 彼も又 苦しむ>
因果応報これは永遠の真理です。ところが人間はご都合主義に陥りやすく、過去においての自分の悪行を忘れ、人の悪行を責め咎めます。
人を裁かず、自らを自己批判するところから道は開けます。
>>>>> 次回は、「一.運命について 3.心と運命」です。 >>>>>
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