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みおしえ
2.己に願う
<人に願うより 自ら自分自身に願へ 人に頼らず汝自ら是を為せ
人に依って願いを満たさんとしても 自ら是を為さざれば
常に人に依らでは満たされざる不自由の苦を受く
故に自分のことは自ら是を為せ 必ず成る
人に願うより自分に願え 人を頼るより自分に頼れ
人は去れども 我れ我れを去らず
人我れを見捨つることありとも 我れ我れを見捨てず>
人間の身の上にあらわれるさまざまな不幸、病気、いわゆる苦難の運命的現象は、結論的にいえば、心中に悩みを抱えているところから生まれるものです。
これについて御神尊様は<不幸は悩みのすがたにして 病気は悩みのあらわれなり>のみおしえによって明確に苦難の生まれどころをお示しくださっています。
たしかにこの世の中に悩みのない人間などいません。だれもが、人間関係、生活の問題、あるいは肉体的故障によるハンディといった何かの悩みを持っています。
それが不幸の因(もと)になり、あるいは病気となってあらわれるのですから、悩みさえ解決すれば不幸病気に泣くことはないし、いつも幸福健康でおられる筈です。
ところがそう簡単にはいきません。人間いったん悩み出すと物事を暗い方にばかり考えて、悲観のドン底に落ち込んでしまうケースが多いからです。あるいは悩みが変形して怒りや憎悪どなって爆発するというように感情の処理ができないところから、そのストレスが積もり積もって、ついに不幸病気にいためつけられることになります。それほどに悩みの解決はむつかしいのです。
そのむつかしい悩みを解決するには先ず第一に、悩みの原因がどこにあるかを見きわめねばなりません。ところが、なかなかほんとうの原因が見つからない。なぜ見つからないかというと、大方の人間が、悩みの原因を、人の所為(せい)、あるいは事情や環境の所為(せい)にするからです。
そこで、冷静に考えてもらわねばならないのは、何事によらず、人が、環境が、事情が自らを悩ましているのではない、ということです 。
いついかなる場合も悩みの原因は外にあるのではなく内なる自分にあります。
それを他に責任転嫁するのは、人や環境や事情に対する自分自身の考え方、感じ方、あるいは生き方に問題があるからです。すべては自分で自分を悩まし苦しめているというのが真相なのです。
このように不幸病気の出どころが、外ならぬ自分にあることを自覚し、運命の実態を見きわめることを悟りといいますが、この悟りを大前提として、<人に願うより自分自身に願え 人に頼らず汝自ら是を為せ>に始まって<人は去れども我れ我れを去らず 人我れを見捨つることありとも 我れ我れを見捨てず>と続いている冒頭のみおしえを理解し、身につけていただかなければなりません。
さて長文のみおしえではありますが、これを煎じつめると「求め心を捨てよ」ということです。ところが、その求め心がなかなか捨てられるものでばありません。だからすべてを人のせいにして人間らしい生き方がわからないまま、いつまでも不幸病気からのがれられないのです。
では、求め心を追放するにはどうすればよいでしょうか。それは、人に願うより自分に願い、人に頼らず自分に頼ること。つまり、自分のものの考え方、感じ方、生き方を自分で改善して人間らしい人間に変わればよいのです。
但しここで大切な事は、変わるのはあくまで自分であって、けっして人を変えようなどとは思わないこと。これがみおしえ実践の基本原則です。
つまり相手が自分にしてくれることのみを願う人頼りは、いわゆる『待』ちの姿勢になる、それでは運命はいつまでも開けないから常に前向きで何事も自ら為せ・・これがこの<みおしえ>にこめられた御神尊様の御精神(みこころ)の真骨頂なのであります。
<人に依て願いを満たさんとしても自ら是を為さざれば
常に人に依らでは満たされざる苦を受く>
とみおしえに示されていますが、人に頼り、人に依て願いを遂げようとする気持ちは誰もが持っている自然の感情だから、別に悪いことじゃないではないか・・という考え方をなさる人も多いでしょう。
それもひとつの考え方ですから、とやかく言うべきではないかも知れません。が、人に依て願いを満たそうとして、自分では何も考えず、何も動かない、つまり、為さざれば、結局、万事人に頼まねば満足できないという苦しみを受けることになる・・と御神尊様はきびしくその点を戒(いまし)めておられます。
表現をかえれば、自分の人生のキャスチングボートを人さまにあずけっぱなしにして、自ら苦を招く・・そういう不自由な人間になってはならぬということです。
現代人は、「自由は人から与えられるもの」と思いこみ、自ら確立するものだということを忘れ去り、人様にキャスチングボートを握らせて、自由どころかかえって不自由に陥ってしまっています。
自分の運命は常に自ら切り拓いていくのが「やります」の善隣精神ですが、この肝腎かなめを忘れずに、<自分のことは自ら是を為せ>と、自力発揮による運命開拓の道をお示しいただくのがこのみおしえ。つまりこの<みおしえ>は「為せば成る」の根本の教えでもあるのです。
しかし、いくらみおしえだからと言って「すべては自力で片がつく、人間は万能だから人を頼らなくていいし、祖先も神も頼らなくていい」と鵜呑みにしてしまうのも困りものです。
要は、人頼みせずに自らの力で事を為す主体性を確立すること。そしてほんとうに自分自身に頼る境地に立ったとき神のお力を授かり、いわゆる自他カ一如で自在に運命開拓できるようになる。そのことを自覚して頂く事が大切なのです。
<人は去れども 我れ我れを去らず
人我れを見捨つることありとも 我れ我れを見捨でず>
このみおしえの中に、我れ我れを去らず、我れ我れを見捨てずとありますが、この最初の我れと後の我れについてすこし考えてみたいと思います。
いささか理屈がましくなりますが、これは善隣信徒として欠くべからざる認識ですから、この機会にはっきりさせておかねばなりません。
我れには、大いなる我れと小さな我れとがあります。大いなる我れとは、神に発して先祖より生命のつながっている悠久なる我れ。つまり真実の我れ、神ごころそのものの我れです。
その大いなる我れは、日常の喜怒哀楽に支配される小さな我れを絶えず見つめていて、より高く引き上げてやろうとしています。
<汝等の霊(たましい)は是れ神明の舎なればなり>の御聖経をひもとくまでもなく、私たちの中には神が宿っていて、その神ごころそのものの我れは、我執(がしゅう)にとらわれ、我欲(がよく)に翻弄(ほんろう)される小さな我れを見捨てることはないのです。
また、他人さまにはダメ人間だと見捨てられたとしても、あなたがあなたを見捨てることはない。それはあなたの生命そのものの中に、小さな我れを超えて神の生命を宿した大いなる我れが存在しているからです。
つまり、私たちの生命の中には自力と他力の生命力が内在し、それが一つにつながって生きており、生かされているのであります。
問題は、その大いなる我れ、真の我れに目覚めるにはどうすればよいかですが、理くつはともかくとしてお祈りしかありません。
生かされていることを自覚して神と人とに感謝の析りを献げる・・その行為が、小さな我れを良き方向へ、高い境地へとみちびいてくれるのです。
自己を過信して『神も頼らん』『先祖も頼らん』と大見得切った姿は、いかにも自主自立、己のみを頼みとするりっぱな我れのように見えますが、それは、単なる強がりに過ぎぬ我執の姿であって、真実の愛念とはほど遠く、施愛に目覚め人さまの苦しみを己の苦しみとする真実の我れを見うしなった憐な我れなのです。
祈りを忘れず、愛を失わずして自分に願い、自分に頼る。これが人間としての生きる道。ですから、人が、環境が、事情が自分を苦しめるのではなく、祈りを忘れ愛を失い、『おれが』『おれが』で人に求めるばかり、自らをみがこうとしない自分が自分を苦しめ、その結果、道を違(たが)えて不幸病気に泣かねばならないのです。
大切な人生のカギを人に預けっ放しにして苦しみ、人も神も信ずることができずに一生を終わるとしたら、こんなみじめなことはありません。
そこで、真の我れすなわち自力にめざめ、精いっばい神にすがって他力を授かりましょう。
そして自他力一如、人のため世のため奉謝の一念で尽くさせてもらえば、すべての悩みは解消し、したがって不幸病気に泣かされることのない洋々たる前途が開けてまいります。
>>>>> 次回は、「みおしえ 3.喜びは生命の糧」です。 >>>>>
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