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みおしえ
10.人生の喘ぎと神の喘ぎ
<汝 神を求めて喘ぐが如く神もまた汝を求めて喘ぐ
神の喘きを知らざる限り 汝の喘ぎや永遠に止まず
故に汝速やかに神の喘ぎを知り己が喘ぎを止ましめよ
世の人の喘ぎを止ましめよ 永遠に神と偕に居るを得ん>
この“みおしえ”の解説に入る前に、先ず実感信仰ということについてある程度心得ておいていただかねばなりません。
信仰はあくまで体験が主体で、そのあとに理論がついてくるものですが、特にここに示されるこの“みおしえ”を解く鍵は、神を己が生命の源すなわち親さまであると感得するところにあります。
この世の中で何がいちばん大切かと問われたとき、素直な答えとして返ってくるのはいのち(生命)だということでありましょう。
そのいのちについて、より深く考えていくと、自分の生命はある大いなる存在によって授けられ、こうして生きておれるのはその見えざるお力のおかげであることがだんだんわかってまいります。しかし、その大いなる存在、見えざる力を信じてそれを絶対なるものと信じきるには、もっともっと大きく心のとびらを開かねばなりません。
つまり、ただ単に目に見える世界のすがたかたちや自然の恵みだけでなく、天地自然の流れすなわち、すべての現象にこめられた大いなる存在の慈悲と慈愛を感得するには、心の眼をみひらかねばならないのです。
そこで、私たちにとっていちばん肝心なのは、信ずる心と行ずる心に裏づけられた祈りの一念だということになります。
“みおしえ”の解明に先立ち先ずこの事をおわかりねがいたいのです。
大いなる存在とは言うまでもなく神様。その神と人間とはたましいという次元においてつながっている親と子の関係にある。したがって子どもである人間の喘ぎは、親なる神の喘ぎとなるのでありますが、親なる神は、人間私たちのこれまでの歩み、今歩いている道すじ、そしてこれからどのような道を歩いていくか・・つまり過去、現在、未来をお見通しであるし、その上、人間自身の気のつかない心の中の微妙な翳(かげ)り、わずかな瑕(きず)をも見抜いておられるので、人間私たちのことを心配してくださる念(おも)い、つまり神の喘ぎはけっして生やさしいものではないのです。
言うならば神の喘ぎとは慈悲そのものにほかならず、そのまま慈愛という言葉に置き換えられます。
私たち人間の心の痛み苦しみ、あるいは心の罪穢(つみけが)れをご覧になって、私たちが悩み、苦しみ、悶え、悲しむ以上に神様の方が苦しみ、悲しまれ、深く大きく喘いでくださるのです。
しかもその喘ぎの中から尽きることない慈悲と慈愛が私たちの上に注ぎつづけられています。
こう考えてまいりますと、神の喘ぎとは、親なる神が子なる私たちに注がれる止むに止まれぬ大慈大愛であることがおわかりいただけましょう。
そこで、もう一度、実感信仰ということを思い起こしてください。
あなたが神様に向かってあれこれと苦しい胸のうちをうったえているとき、その苦しみの奥の奥まで見抜き見通して、うったえるあなた以上に苦しみ嘆いておられるのは神様です。そして神様は「よし、よし、もう泣くな」と、温かい愛の息吹きをお注ぎくださっているのです。
小さな幸せが得られぬからとて悲しみ、小さな不幸に遭遇したからといって苦しむ。そんな自分の狭い心に比べ、神はいつもあなたのために泣いてくださっている。計り知れない大きな苦しみと悲しみを負うて人間を慈(いつく)しんでいただく。何という有り難いことでありましょうか。
こう考えてくると、はじめて私たちは、御神尊様現し身(うつしみ)の七十年が神の喘ぎをもって喘ぎつづけられた尊いご生涯であったと実感することができます。
その実感の中から思い知ること・・それは何かといいますと、これまでの自分の喘ぎが如何に取るに足りぬ小さな苦しみだったかということです。
真っ暗闇ではかすかな光もあたりを明るくします。ところが、その明かりも太陽の光に照らされると吸収されて見えなくなってしまいます。
私たちは自分自身の小さな苦しみからのがれたい、救われたいとひたすら光を求めつづけてきました。
その求める光とは我が身が、家旅が、親族一同が幸せであるようにとの願望です。それも、たしかに愛の発露にはちがいありません。が、実感信仰には程遠く、何もそんな小さな光を求めて喘ぐことはないのです。子なる私たちのため喘ぎつづけておられる御神尊様の大いなる愛に包まれ、宏大無辺の光明を仰げば、今救われるばかりでなく永遠の安らぎを得ることができるのですから・・。
<故に汝等速やかに神の喘ぎを知り 己が喘ぎを止めしめよ>とありますが、この神の喘ぎを自覚すること・・それがすなわち実感信仰なのであります。
神の喘ぎを知り、実感して、自らの魂をみがき高めていかねばほんとうの信仰は身につかないし、己が喘ぎを止めることはできません。
神の喘ぎのいかなるかを知って小さな自分の喘ぎを超越したとき、すべての人間の喘ぎを引き受けてくださっている神の大いなる喘ぎに目ざめ、自分が苦しいように人様もまた苦しいのだということがわかります。
所詮、人間は、悩み苦しむ罪深い存在だということに思い至ったとき、他を責めるよりはいたわり、憎むよりはいとおしんで共に救われるため神のみ前に合掌し、さらに手を伸ばして人さまを導き、助けようと思う・・そこまでの信仰が身につけば、その時はじめてあなたには御神尊と偕なる人生の喜びが湧き、而も永遠に神と偕なる世界に生きることができるのです。
人より高い地位に就き、人より多くの財を成し、そして人より長生きできるとしたら、なるほどそれは人生の大きなよろこびです。
しかし、形あるものは滅し、生あるものは死す、これはまぬがれがたい“さだめ”ですから、束の間の愉悦、泡沫(うたかた)の安楽はかえって深刻な喘ぎのタネとなります。
ですから、大いなる神の喘ぎを知って、私たちが神の慈愛のみ光に照らされ、すべての人とともに生きる喜びとともに生かされる喜びを分かち合っていけば、そこに永遠の喜びの世界が開けるのです。
>>>> 次回は、「みおしえ 11.信仰と修行」です。 >>>>
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