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みおしえ
8.人生の謎
<人生は謎である 人生は謎に始まり 謎に生き 謎に終わる>
人間は、人生の真っ只中にいると、そこに何の不思議も感じないで、ただ流れるまま、あるいは流されるままに生きていくものです。ところが、何か自分の思うようにならぬ厄介な出来事に遭遇するとか困難な障害にぶっつかると、途端に人生に疑問を懐きます。
人生とは何と不可解なそしてままならぬものだと思い始める、つまり人生の苦悩が生じるのです。
実はこの「人生は謎である」との疑問が湧いた時からほんとうの人生のあゆみが始まります。ということは、悩み苦しみを持たないうちは人生の何たるかなどに関心はなく、したがって人生そのものについては何も分かっていないわけです。
人生とは、人間にとっての永遠のテーマです。なぜなら、今もなお人生は謎に包まれたままであり、いつまで経ってもその一切(すべて)が解明される日は来ないからであります。
しかしながら、その謎も、ただ一点にしぼって見つめれば、おぼろげながら、人生の何たるかを窺い識(うかがいし)ることはできます。
その一点とは、「何のための人生か」という人生の目的を突きつめることで、この目的の究明に焦点を合わせると、人間は何のために生まれ、何のために生き、そして如何に死すべきか・・という人生の根本的な命題を何とか解くことができるのです。
さて<みおしえ>に「人生は謎に始まり」とあるのは言うまでもなく出生の謎です。「謎に生き」というのが運命の謎、そして最後の「謎に終わる」とは死の謎です。
わかり易くいえば、何故生まれたのか、または何のために生まれたのかという謎、そして迂余曲折波瀾に満ちた人生航路にあらわれるさまざまな運命の出どころはどこかという謎、さらに生あるものはかならず死すという厳然たる事実、つまり人生の終わりの死をどう受け止めるかの謎・・このように人生は始めから終わりまで謎。しかもその謎はいくら探究しても解けない謎だということです。しかし答えを得る道が一つある、それは人生の目的を見きわめることです。
人間は死を見つめると誰しも無常を感じる。何年生きるにしても、どうせ死ぬ身だというので、生きている毎日が空しく思えてくる。かといって、死は恐ろしく、生への執着はますます強くなる。つまり生きたいけれど生きるよろこびは薄い・・そんな矛盾した考え方の中で人生の謎は深まるばかり。
こういうとき無性に欲しいのは、何のために人生が始まり、何のために生き、そして如何に死すべきかについてのすっきりした答えです。
この答えを追及すると結局人生の目的は何か・・という一点にしぼられ、その目的を自覚したとき、人生の迷いは消え、謎は解けていく。
ですから、人生の根本的課題は、生きることの目的を自覚するか否かにかかっているのです。
実はこの人生の謎を解き聞かせるために存在するのが宗教で、私たちが信仰をするのも、自覚するとしないにかかわらずその根底に人生の謎を解いてもらいたいとの願望があるからです。
むつかしい言い方になりますが、信仰を通して人生の本質を究めようとしているわけです。人生の始まり、人生の推移、人生の終末をいくら論理的に追求していっても謎は解けない。それを解くところに信仰の本質があるということになります。
しかし、所詮理くつでは解明できない人生の謎ですから、人生そのものをあまりむつかしく考えない方がいい。考え過ぎるとかって混迷に陥るばかりです。
他人は恵まれた幸せな生活をしているのに、自分は欲しいものも手に入らぬみじめな生活を強いられている場合、同じ人間に生まれながらなぜ自分だけこんなに苦しまねばならないかと思う。そんなとき、生まれ合わせのせいと考えはしても、何も望んでこの世に生まれてきたわけでもないのになぜ? と人生そのものに疑問を持つ。それが未解決の問題としていつも心の中にひそんでいるとしたら、見るもの聞くもの不平不満でしか受け止められない。
そこで如何に難しくとも解明しなければならないのは、「何のためこの世に生まれてきたか」という疑問です。
人生はこの問題の解決を避けて通ることはできません。
そのかわり、何のため生まれてきたかがわかると、何事にも感謝して生きることができ、それが幸福となり健康となって我が身にあらわれてきます。
このように心の入れ替えをしてくれるのが宗教であり、生きることによろこびを与えてくれるのが信仰です。
しかしながら、人間という存在は、いくら宗教の教えを聞き、信仰心をみがいても、人生の根本問題をそう簡単に割り切れるものではありません。分かったようなふりはしていても心の底には割り切れない謎をひそめているものです。
その心の奥底にメスを入れようとおもえば、たとえ理くつに流れても本質から人生を見つめ直す必要があります。いくら表面(うわべ)の草をむしったところで根がある以上また生えてくるからです。
不可解な事はその時その場で忘れるとしても、人生の根本の謎が解けていないかぎり、また疑問は芽を吹き、枝葉を茂らせ、謎は深まるばかりです。
そういうところからこの<みおしえ>に取り組むことになりますが、前にも申しあげたようにこれは問題提起の<みおしえ>で、答えは示されていません。ですから、いわば、一生かけて解き明かさねばならないテーマなのです。
さて、この謎を解く第一の手がかりとして次の<みおしえ>があります。
<人の一生は死出の旅 如何なる死に方をすべきか 加何なる生き方をすべきか>
これは、人の一生というものは結局どうやって死ぬか、どうやって生きるか、すなわち死に方、生き方にかかっているということをお示しくださったものです。
目先の安逸を欲しがるより、身の健康を追い求めるより、人間にとって大切なことは、いずれはおとずれてくる死であるから、その死の時にどういう死に方をするかということ。また死に方を考えれば死の瞬間よりそこに至るまで悔いなく生きるための生き方こそが人生の一大事である・・と、これまた問題提起の形でお教えいただくのです。
では、その生き方、死に方はどうあればよいか。答えは単純明快、次の<みおしえ>に示されています。
<如何にして世のためになるかが人生最大の目的なり>
角度を変えて言うと、人間にとって最大の喜びは、取るに足りない小さな存在の自分でも人様のためなにがしかお役に立つことができた時の充実感です。自分を人のため、世のため生かし得たというこの喜びのなかには、あらゆる苦悩を超越するエネルギーが秘められています。
自分の人生が偶然の所産ではなく幾世代にもわたる先祖のさまざまな努力の債み重ねの結果、自分というものがこの世に生まれ、しかも自分の生命には「人びとよ愛し合って生きてくれ」「人びとよ住みよい世界をつくってくれ」という親なる神の願いがこめられている。それを知ったとき神の子人間は、神のみ心のままに生きようとふるい立ち燃え上がります。
こうして、人間同士が仲良く助け合い、自分のためというより一生かけて人のため世の中のために生きれば、ひとりでに人生の謎は解けてまいりましょう。
「世のためになる」という人生の真の目的に目ざめたあなたが、悔いのない人生を生きていこうとするとき、燃えるような生命の躍動感が、あなたの心をより善ならしめるエネルギーとなり、少々の苦難に遭遇してもたじろがず、あるいは少々の事情が生じてもとらわれず、悩まず、それをステップとして向上への道をあゆむことができます。
そこに前向きの人生が開けてくることは言うまでもありません。
運命開拓のカギはさまざまな経験を積み重ねることですが、その経験は受け身であってはならないのです。能動的に積極的に人生と取り組み、経験を積むことによって運命を切り拓(ひら)くとき、それは自ずと人生の謎を解くことになります。
さて、救世道時代における信仰を通して、あなたが人生の謎を解かんとするなら、「ともすがりの修法」を債み重ねることによって神と妙合し、先祖と魂の交流をする中で、生命の歴史を刻んでいくのだという意識に目ざめて心のとびらを開かねばなりません。
宗教的修法が身について、日々の生活が神と偕に生きている歓喜にあふれ、脈拍ひとつにしても「これが神の息吹きだ、ああ有り難い」と思うあなたになれたら、そのとき始めて、見るもの、聞くものによろこびを感ずることができます。
今はまだあなたの人生のとびらは一枚目か二枚目が開いているだけ、これから開かねばならぬとびらが幾重にも前途に横たわっています。ですから、大いに人生の謎に悩み、その解明に向かって信仰精進してください。
>>>>> 次回は、「みおしえ 9.神の説き給う道」です。 >>>>>
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