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四.信仰について
3.信仰生活
(1) <神の前千日去らず祈るとも 心邪なればそのかいもなし>
ある要求をもって神の前に額く、そもそもここに邪(よこしま)な祈りがあるのです。
例えば「孝子の心中に孝念なく、ただ親あるのみ」とあるように。親なる神を念(おも)い続け、神の心のまにまに生きるところに真実(まこと)の信仰があります。「こんなに一所懸命に祈っているのに、助けてもらえない・・」などと祈る側の自分のことばかり思うのではなく、自分もまた、親なる神に祈られ、生かされていることに目覚めなければなりません。いわゆる神の要求に生きる・・ここに純粋な信仰があるのです。
(2) <快楽を愛するが如く道を愛せよ 道を愛するは神を愛する事なり
故に神常に汝に在りて汝を守り人も又借に喜びて幸いならん>
快楽を愛するは人間の本能です。この本能の持つエネルギーを抑圧することは非常に困難でしょう。ならば道を愛する快楽に目覚めることはできないものだろうか・・。食欲、性欲の満足、さらに自己顕示欲も快楽ではあるけれど、この本能に順応し、道にしたがって自己を実現するよろこびを発見したいものです。
愛には歓びがともないます。道を愛し神をする人生は歓喜そのものです。神を愛すれば神の愛を実感し尽きぬ歓びが湧いてまいります。
この歓びの輝きが生活に満ちあふれ、すべての人と偕に幸せに包まれるのです。
(3) <祈りても利益なきとは何事ぞ 世に神仏あるもうたがう>
祈りの価値を利益の有り無しで計り、信仰までも自分の都合で左右するのは、そもそも信仰に対する考え方が根底から食い違っているようです。まして利益が無いからと言って神仏の存在まで疑うとなれば、救いようはありません。おっとこれは解説者の考えで、それでもお救い下さるのが神のご慈悲です。生かされている以上の利益がありましょうか。要求より感謝の心で祈りたいものです。
(4) <信仰への入口は口に言葉に耳に表すは困難なり
門前に百度立つより一度中に這入れば分かる
人若し一杯の水の味わい問う人あらば如何に答えん
人若し風呂の味わい問う人あらば如何に答えん>
信仰は理屈ではない、体験である。身体で知る信仰こそ本物です。物事を順序よく分析的に把握するのではなく、直観的かつ総合的に把握する世界が信仰です。これには体験以外にありません。つまり「修法」が重要な鍵を握っているのです。
(5) <信仰を日常生活に折り込むという事は当たらない
信仰の中に生きる処に信仰がある>
たとえば朝夕だけの祈りではなく、思わず知らず御璽経や「やります」が口を突いて出てくるような日常生活の中に生きた信仰があるのです。
この境地に達するには念行施行が身に付いていなければなりません。具体的なことでは、仕事と信仰とどちらを取るべきかなどと悩む人がいますが、仕事も信仰心の表現として誠をこめて勤めねばなりません。こういう処に信仰即生活、生活即信仰の道があるのです。
(6) <信仰の価値は御利益に依て決定せず 人間的向上に依て決定す>
人間的向上は永遠の宝物ですが、御利益はその場限りの宝物にすぎません。
永遠と刹那、現象と本質、本当に求めているものは何でしょう。己が価値観にメスを入れなければ真実の信仰の扉は開きません。
昨日より今日、今日より明日、少しでもおおらかで、慈しみ深い人間になる、ここに信仰の価値があるのです。
(7) <信仰とは偕に行く道>
共にと偕にとは意味が違う。前者は限りがあって短時間の「ともに」で、後者は限りなく広く永遠なる「ともに」です。しかも偕にとは、すべての人とともに、祖霊とともに、御神尊(かみ)とともにの意味でもあります。御聖経の元の名称が「偕に行く道」であるように、常に信仰の目的をここに定めなければなりません。
(8) <己が信仰を確立するに 友なき信仰は神に遠くして永遠に神を見ず>
<神を遠きに求むる事勿れ ただ己が心中に神を求めよ>の御聖経二十六節の精神をさらに広げると、心は生活の場に顕わになって来ます。しかして神を人間関係の場に求めなさいとの意味でもあります。信友との魂(たましい)のふれあいの中で神の存在を実感することができるのです。
そのために「一心妙合ともすがりの秘術」が行われます。一人だけの修行より、信友とともに磨き合う修行に真の歓びがあります。
(9) <信仰は峠なき峠を登るに似たり>
御利益を求める信仰には峠があり、人格向上を目指す信仰には峠はありません。
<罪を罰する法律の世界 善を褒める道徳の世界 善に苦しむ宗教の世界>のみおしえがありますが、善を求め、その真偽の中で葛藤し、より真実の善を確立するために峠なき峠をうまずたゆまず登り続け、魂の成長を実感するところに信仰の歓びがあります。
(10) <善隣の道の名刀は人を切らず己が邪情を断つ為の名刀にして
人を切らば直ちに錆び て鈍刀となり己が邪情の虜となる>
自分と人との関係は、身近になればなる程あやふやになるようです。たとえ家旅の間でも自分のことのように人をあつかうわけにはまいりません。どんなに相手に間違いがあると思われても、善隣の道の真理をふりかざして相手を責めれば、邪情が再びあらわれて来ます。善隣の道はあくまで己が邪情を断ち、人格を磨き高めるための名刀なのです。
(11) <人に聞くより我に聞け 我に聞く気で道に聞け
道は汝の向かうべき彼方を指(つまざ)さん>
どのような教えでも、自分の問題として促えなければ、教えの真実に触れることはできません。自分自身の持っている問題意識が教えを人生の行くべき道と認識する鍵になります。
つまり主体的に道と取り組んではじめて、我の行くべき方向が見えてくるのです。
(12) <信仰は運命開拓の具ではない 善良なる人となり感情の調整
生活の調和の為にのみ重要なり>
ここで示される具とは手段と言う意味で、信仰を運命開拓のための手段とすることの非が説かれています。病気を治さんがために善良な人間になると言うのは主客転倒しています。あくまで感情の調整、生活の調和のための信仰に励みたいものです。
(13) <反省と懺悔は神に対する体当たり>
神の存在、神のご慈悲を実感することを「体当たり」と表現されていますが、絶対者たる神のみ前に自己をさらけ出し、親なる神の心で自己を見つめれば、懺悔の涙はとめどありません。
この境地に至るには理屈を超えた修行が肝心です。
>>>>> 次回は、「五.みうた 1.親心」です。 >>>>>
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