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みおしえ
3.喜びは生命の糧
<喜びは汝自身の生命なり
汝喜びを造ること是生命を養うことなりと知りて 自ら生活を楽しめ>
曽(かつ)て御神尊様がこんなお話をなさったことがあります。
「『教祖の話にはいつ聞いてもかならず“喜びと笑顔”という言葉が出てくる。きっと口ぐせになっているのだろう』・・こんなことを言う人が少なくないと思う。たしかに私が教えを説くたび、喜びと笑顔は何度でも出てくる。耳ざわりかも知れない。が、善隣の道を語るにあたって“喜びと笑顔”という言葉が使えないとしたら、それは両手両足をもがれたようなものだ」
それほどに、喜びと笑顔は善隣の道(おしえ)の核心だということを仰言(おっしゃっ)たのですが、その“喜び”を解説したみ教えをご紹介します。先ず「喜びは汝自身の生命なり」ということから考えてまいりましょう。
人間は飲んで食べて、それだけで生きているのではありません。
日常生活におけるさまざまないとなみの中で生まれる喜び・・その喜びによって心が充たされ、そこに明日へ向かって進んで行く妙不可思議なエネルギーが発生します。
いわば喜びは生きるための原動力であり、言い換えると生きるとは喜ぶことでもあります。
さて、「あなたはいま幸せですか」と尋ねられたら、「マァマァです」と、どっちつかずの返答をする人が案外多いのではないでしょうか。だが、こんな中途半端な生活に甘んじているから精神的に澱(よど)みを生じ、のっぴきならぬ悩みをつくることになるのです。
ですから、なまじぬるま湯的な安逸の中で酔生夢死(すいせいむし)といった無意味な人生を送るより、考えようによっては、かえって不幸や病気の苦難と対決している方が人間の生命力は燃え盛ってくるし、幸福への憧れ健康への願望も強烈になって生命そのものが充実し、すばらしい活力が湧き上がってきます。
人生にとっていちばん大切なのはこの生命力の充実です。人間同士深くかかわり合えばお互いの欠点が見えて来るでしょうし自我も出ましょう。そこには当然対立や衝突が生じます。しかし、それがお互いのより深くかかわり合いたいと願う愛の発露であるならば、少々の葛藤は止むを得ません。お互いが生命力の充実のため真実を求め、愛を求める。それ故に生ずる[いざこざ]はいわゆる産みの苦しみだからです。
たとえば、夫婦生活において、別に不満もなく、喧嘩もしない、何となく相手を認め合うといった人間関係からは、ほんとうの喜びは生まれません。
何か火花を散らすような心と心の熱いふれあい、そこから更に探く魂のむすびつきというところまでお互いが深く入りこんでゆく・・。そういうかかわり合いの中にこそ“汝自身の生命なり”とお示しいただく喜びが生まれてくるのです。
こう考えてくると、“マァマァ幸せです”という生活より、不幸病気の渦(うず)の中にいて幸福健康への渇望の念を燃やしている方が、よっぽど生命力の充実した人生を送っているのだということがわかります。
あなたはいま最も深くかかわり合う身近な人間関係の中で、果たして相手と同調し、心と心をつないで喜びを共感し、悲しみを分かち合うという生き方をしているかどうか。ここで自らの心に問い直していただきたい。
では喜びによって生命を養い、楽しい生活をするため先ず大切なことは何か。それは、何をするにしても、同じやるのなら心から喜んでやること。これですべてに満足が得られます。それを、不平不満を持ちながらイヤイヤやったのでは、それこそ人生を浪費している以外の何ものでもないのでいっそやらない方がましです。
状況からしてどうしてもやらざるを得ないとしたら、すべからく喜んで事を行うこと・・これが生命の充実につながり生活の充実に直結します。
苦難に立ち向かい、とてもできないと思う事を汗水たらして成し遂げたとき、そこには創造の喜びと自らを生かし得た喜びがあります。しかもこの喜びが明日へのエネルギーを湧き立たせてくれることは言うまでもありません。
何はともあれ、私たちが絶対に忘れてならないのは、事に臨むには先ず喜びを以て取り組むことです。
みおしえに<合えば明るく離るれば暗し 合えば嬉しく離るれば悲し>とありますが、喜びは心のふれあい、魂の交流のところに生まれます。
離合によって明暗喜悲が分かれる、これ陰陽の法則です。
本来合わない異質なものを合わせていく。つまりプラス(+)とマイナス(−)のまったく異質のものが合わさるとそこに別の新しいものができる。この法則の通りに人生の喜びは生まれてくるのです。
喜びをつくるものはもちろん愛です。その愛によって生命の底から湧き上がってくる真の喜び・・これを称して幸福といいます。
このように愛によって喜びを生み出し、創り出し、そしてやすらぎ、ふれあいの人生をきずいていくのが善隣の道でいうところの“光明道”です。
光明を求めるための人生ですから、私たちは苦しみに耐えたり、悩みを抱えてじっと我慢する必要はありません。喜びのない無明の生活をするなどは愚の骨頂です。
あなたには自分の良いところはわかっていましょうが、その長所を大いに伸ばして生きること。そういう考え方が光明道に通じて行くのです。
ところが、自分の悪い面ばかり見つめて“俺はダメだ”と絶えず自分に言い聞かせながら厳しく反省、ざんげする。だが、いっこう改善、向上への意欲の湧かない。これではその人のあゆむ道はけっして光明道ではありません。
常に喜んで事に臨み、自分に対しても、人に対しても、またすべての事柄に対しても明るく、前向きに生きてゆくこと・・これが喜びを作り真に生命力を養う原動力となるのです。
また、愛とは与えることです。自分の中に人ヘプレゼントする何ものもなくてどうして愛の実践ができましょう。
喜びと笑顔を忘れず、相手を思うその愛情をプレゼントするところにお互いの心はふれあい、魂は交流し、新たなる喜びが自他の間に生まれる・・この次元を“歓喜”といいます。
そしてその歓喜の広がりの中で我も人も喜び、更にそれが先祖の喜びとなり、神の喜びにまで高まって行く・・。このすがたを大歓喜といいます。
>>>>> 次回は、「みおしえ 4.心身のいとなみ」です。 >>>>>
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