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四.信仰について
2.神と人
(1) <神を遠きに求むる事勿れ ただ己が心中に神を求めよ>
これは聖経二十六節ですが、肝心な点はどのようにして己が心中に神を求めたらよいかです。
神は本来見えざる存在、つまり幽なる存在で、幽顕の扉を開けなければ、神を見ることはできません。決して理屈や観念では捉えられないのです。神は生命の源霊で、生命の法則にもとづいた、秘儀秘術をもってすれば、霊の扉が開きます。それは御神尊より聖主を通して示されている神秘の修法です。
神とは愛と救いの霊的存在で、神を己が心中に求める修法は人を救わんとする強い愛念が根源力となっています。人を愛さんがため、人を救わんがために献げる念想と熱祷の祈りは、おのずから霊の扉を開いてくれます。
(2) <神は行う者の心中に常住して其の人を愛護す
行いを離れて神を見んとする勿れ>
神と人間の関係はテレビ局と電波と受像機みたいなもので、スイッチを入れ、チャンネルを合わせると映像があらわれるのと同じで、人間自身が神の存在を感応する受像機です。
祈りによってキャッチした神の霊波からみおしえの実行というチャンネルを合わせると救いがあらわれます。しかして善隣愛の実践こそ御神尊(かみ)にいだかれ御神尊(かみ)と偕に在る道なのであります。
(3) <我に敵する者の幸いを祈り得る者には 神常に其の人にありて之を加護す>
宗教の永い歴史の中には「呪いの祈り」が生み出されたこともあります。しかしよくよく研究してみると、呪っている相手が罪を改めた場合は、恨みの罰は呪った側に現れると言われています。祈りの持つエネルギーのものすごさを物語っていますが、敵を愛する祈りこそ、神のご加護を受ける真実の祈りとなるのです。
自分の幸せ、味方の幸せのみを祈っても神の心にかないません。敵味方なくすべての人の幸せを祈りたいものです。
(4) <人にしていかに神に向かって合掌するとも
神明に恥じいる処ありてはいかに祈るとも
己が本心これを許さず 邪念心が本心を覆うては 神と我とを繋ぐ能わず>
神明とは見ぬき見通しの神眼のことで、「天知る地知る己知る」で、人の目はごまかせても神の目、そして自分自身の目をごまかすことはできません。わかり易く言えば、神心と人間の本心とは霊的に連絡がとれていて、道に反逆し神明に恥じいることがあると、本心にうずきを感じるものです。この感覚が信仰の修行によってさらにとぎすまされます。常に御神尊(かみ)への帰依妙合に精進していなければ、すぐに邪念が本心を覆うてしまいます。念行施行、おさおさ怠りなきように・・。
(5) <汝の思いは汝を悩まし 神の思いは汝を喜ばしむ
汝よく神の思いで我を思いて神を思い神に思われ神の思いに住め>
汝の思い、つまり私たち人間の視野は自分を思うことのみに向けられています。しかして人間関係にくい違いが生じたりするのです。神の心に感応し、神の視野で、自他を見つめ、過去現在未来を見通すことができるならば、悩みなど生まれないでありましょう。
要は神の心に感応することですが、そのためには常に御神尊(かみ)を意識し、御神尊(かみ)のみ前に額く時間を少しでも長くし、祈りにつらぬかれた生活を楽しみたいものです。
そして<神を思い 神に思われる>ほどの霊的交流が日常化するならば言うことはありません。
(6) <我為に終わるより多くの人の為に終わらんとする者は幸いなり
必ず神の懐に抱かれるなり>
人生は終わり方、つまり死に方が問題です。「世の中で我ものとてはなかりけり、身をさえ土にかえすべければ」と歌われているように、消えて無くなるわがためにのみ生きるより、世のため人のために生き、そして死ぬ、ここに永遠の道があるのです。
神の世界からやって来て、神の子としての人生をきずき、地上に平和楽土を建設して、神の世界に帰ってゆく、これが真の生き方、死に方です。この真実を自覚せんがために、さまざまな修行を積みます。
(7) <信仰とは 愛の生活にいそしむ行の一念そのものなり>
人間にとって一番つらいことは、何もすることがなく、何の目的もなく生きることです。かえって不幸や病気にさいなまれている時が、それと闘う人生の充実感がみなぎっています。勿論当人にとっては不幸病気を人生の充実と言う次元でとらえる余裕はないでしょう。しかし「人生は苦しいのが当たり前」と思ってしまえば、少々のことでも楽に思えるのではないでしょうか。
問題は苦との遭遇よりも、それを分かち合う相手がいないことです。その上に生き甲斐がないとしたらそれはもう悲惨です。
たしかに苦楽を分け合う愛の生活にはさまざまな葛藤がつきまといましょうが、それを「修行」と言う精神の高まりまで昇華させて生きるところに「信仰」があるのです。
(8) <修行とは神の人を愛し給う愛を求め
人の人を愛する愛の如何なるかを体得せんとする事なり>
神の愛は絶対愛で、相手のいかんに拘わらず、無償にして永遠に注ぐ愛です。反面、人の愛は相対愛で、相手に左右され、報いを求める刹那の愛です。つまり神の愛は「施愛」、人の愛は「求愛」と申せましょう。しかして信仰上の修行は求愛を脱却して施愛を体得するために行うのが本すじであります。
(9) <神を畏怖する者は神の栄光に飢ゆるなし>
畏怖するとはその字の通りおそれかしこむことでありますが、人間はどうしても自分の尺度で物事をとらえます。神は時間空間を超えた存在で、人間にとっては時間空間の尺度で神の存在を想像する方が納得し易いようです。
例えば時間の次元で考えると、この天地宇宙は一五〇億年前に創造され、銀河系の太陽系宇宙が四十六億年前、人類はその流れの中のたかだが二百万年前で、現在の人間に近い姿で現れたのは一万年以内でしょう。そして宇宙に輝いている星の光などは一万年前にはなたれた光が、地球にとどいているのです。全く無限大に永く広く大きい宇宙の創造主が神です。しかも天地創造のものすごいエネルギーをもって救いを顕される訳ですから、神の真実の存在に触れるならば自然に畏怖の念が生じ、神の栄光に抱かれるのは当然でありましょう。
(10) <神の前で人を忘れず 人の前で神を忘れず>
信仰即生活、生活即信仰、ここに真の信仰があるのは言を待ちません。神に自分の要求をつきつける信仰でなく、神のお求めに応えんとする信仰ならば、神の前の如く聖なる心で人に接することができるはずです。神の心を受け入れる信仰に徹底しましょう。
>>>>> 次回は、「四.信仰について 3.信仰生活」です。 >>>>>
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