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五.みうた
5.人生
(1) <時々にねじをかけねば生きられぬ 時計の命も人の命も>
このみうたは現代に当てはまらないかも知れません。なぜならクオーツというねじをかける必要のない時計が出現したからです。しかし時計もそれ自体では存在できず、電池も分解そうじも必要です。ところが人の命がクオーツのようにねじもかけずに生きられる時代は多分やってこないでしょう。ねじとは他力であると同時に努力のことです。そして昔のゼンマイがけの機械はゆるんでくると動きが緩慢になり、いそいでねじをかけましたが、信仰生活も似たようなもので、時々、幹部指導者からしかられ励まされ、ねじをかけてもらわねばなりません。
信仰はわがままで自由にしておいても向上するというような甘いものではありません。努力精進、そして厳しく他力を注入してもらってこそ生きてくるのです。
(2) <おれはよしお前が悪いとかみ合うて 暮らす心ぞ扉なりけり>
「おれお前」と呼び合う身近な間柄こそ、一歩間違えば相手の批判にばかり目が向き、いわゆる「自善他悪の念」がむき出しになります。
そしてお互いの間に扉がおりてしまいます。ほんの少し受容精神を発揮してやわらかい心で相手の立場になりその言い分に耳を傾ければ、再び扉は開いて心の通い合いに歓びを見いだすことができます。ここに真の仕合わせがあるのです。
(3) <和合せず仲悪しければ地獄なり 仲がよければいつも極楽>
地獄や極楽は心の世界の問題で、これを霊的次元にまで高めてあの世にも想定するわけです。
どんな状態が地獄かと言えば、和合せず仲が悪ければ、どんな角度から見ても相手の欠点ばかりが目につき、さらに対立の念が湧いてますます仲が悪くなる、この悪循環の姿が地獄そのものなのです。
その反面、仲が良ければ、欠点までも可愛いさや味わいのある人柄にみえ、そんな心でお互いに接するのですから、ますます歓喜がみちあふれてまいります。全く極楽そのものです。つまり切れているかつながっているかで地獄、極楽に分かれるのです。
(4) <暗路より暗路に迷う世の人の 後姿を見るぞ悲しき>
暗きが故に迷い、迷うが故に悩み、悩むが故に病み、病むが故に死す・・ここに人間苦悩の実態があります。この人生は暗路を歩く程にさらに暗路に迷う、その後姿に合掌し幸せをお析り下さる御神尊様、そのねがいは<愛に還れ 愛に遠れ>の一念です。
この御神尊様のみ心を心として、慈悲と施愛に生きる時、暗路に光明が輝き、生きる歓びが湧いてまいります。
(5) <御教えをきくたび毎に思うかな 己が心にうつる罪かげ>
宗教は人に楽を教えるものにあらずして、苦を教ゆるものである、と言われています。
一条の光が縁側などにさしこむと、こまかいチリが宙に舞っているのが見えます。このように人間の心もみ教えの光に照らされると、その罪かげがあらわに見えて自分の悲哀をさらけ出します。
信仰は己が心にうつる罪かげを見た時からはじまります。罪の意識のない人は真の救いを求めることは出来ません。不幸病気の解決よりも、罪の重荷をおろす、ここにこそ永遠の平安があるのです。
(6) <世の中に涙心のなかりせば いかで結ばん人の心を>
涙心とは人の情のことです。人間、愛はあっても情がなければ心は通じ合いません。
目に光る涙にもそれぞれ深い意味が隠されています。それをそのまま受け容れて共感するのが情の世界です。ところが自尊心や虚栄心ばかりが勝ってくるとどうしても情はうすくなります。
すなおな心、これが情の源泉です。あまり理屈をこねまわさず、心を開いて思い切り泣き、思い切り笑いたいものです。
(7) <生まれこぬ先も生まれてすめる世も まかるも神のふところのうち>
いわゆる三世のすべてが神のふところのうちであるとのみうたです。
信仰はこのみうたの境地にまで到達したいものです。<まかるも神のふところのうち>とは、死に行く先も神の世界である、何も恐ろしくはないとの信念です。
<人生は謎である 人生は謎に始まり 謎に生き謎に終わる>・・のみおしえをこ存知だと思いますが、この謎もすべて神のふところのうちの信念に立てばみごとに解明されます。
要は御神尊(かみ)への絶対帰依の信仰です。
(8) <ほろほろと啼く山鳥の声きけば 父かと思う母かとぞ思う>
これは父母を思う心をうたったもので、胸にジーンとくるものがあり、ここに心の豊かさが感じられます。人生にさまざまな苦労を積み、しかもすなおさを失わない人は孝心も厚く情が肥えています。
確かにほろほろと啼くのは山鳥にすぎません。それを父母の化身と観(かん)ずる心の持ち主は、その裏側に耐えてしのんだ孤独な人生があったことでしょう。そして、その道をのり越えた人だけが、自然の徴妙な姿に慈悲を観ずるのです。ここに、<見えるもの一切は是れ神の御神像(みすがた)><聞こゆるもの一切は是れ神の御声楽(みこえ)>の御聖経の情神があります。また神を「天地大御親祖之神」として親のように敬慕するところにもこの精神が流れています。
(9) <短気ゆえ身をほろぼすと心得て 常に心のかじを忘るな>
自分の性格を知り、常に心のコントロールをおこたらず、自己人格の向上を目指す。平凡なようですが、ここに信仰の基本があります。またこのようにすべてを己が性(しょう)ゆえであると考え知る人は人を責めることがありません。
そして心のかじ取りのために誠を献げる者に信仰の停滞はありません。
(10) <あらそいの握りこぶしも開くれば 可愛となでる同じ手の先>
人に対しても、自分に対しても、先入観や固定観念をもたず柔軟に見つめたいものです。
あらそいの握りこぶしを見ても、可愛いとなでる同じ手ではないかと見つめる豊かな想像力、案外信仰はこんな処に秘訣があるのかも知れません。
(11) <おのが身のくもりはうつる世の人に 人は我が身のかがみなりけり>
人はみな互いに鏡である、この真実を知る人を悟りの人と言います。自分で自分の顔を見ることが出来ないように、おのが心も人にうつってはじめて思い知らされます。
ここにも神のきずかせがあるのです。たとえ人が刃を向けてきてもおのが心の刃を見せつけられているのだと、悟るところまで心を磨き高めましょう。
>>>>> 次回は、「六.箴言 1.心もよう」です。 >>>>>
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