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みおしえ
7.おかげと帰依
<父のおかげ 母のおかげも さることながら
人間生命の根源は天なり 地なり と知る者は その永遠や楽し>
宗教にはそれぞれ信仰の拠りどころとする何ものかがありますが、善隣教は、親ごころに帰依し、それを拠りどころとして親に孝養の誠を尽くす信仰・・であると断定することができます。それを裏づけるのがここに掲げたみおしえの中に示されています。
さて、生命の源としての存在を親と言い、また私たちを生み育てた方を親と言いますが、この父母だけが親ではありません。
親はなくとも子は育つということわざもあるように、生命という次元に立てば、真の親とは天地自然だということになります。
というのは、たとえ父母が亡くなったとしても子の生命が断たれることはありませんが、もしも、天なる父、地なる母の存在がうしなわれたら、それこそすべての生命は即座に死滅してしまうからです。
このような生命の大元、つまり天地宇宙の大源霊を、善隣の道では「天地大御親祖之神」と尊称し、私たちはこの親さまに帰依心を献げているわけです。
御神尊様は二十年の御行を通して、人間生命をふくむ万物万霊の生みの規、育ての親の存在を体得され、この宇宙の大生命に天地大御親祖之神の尊称を奉って神の実在をお示しくださいました。
この親なる神の存在を自覚したとき、私たちには生きるカとともに魂の底から生きていることの歓喜(よろこび)が湧いて来るのです。
それについて、ずっと以前のことですが、私が説法の中で次のような例話を紹介したことがありました。
「私がまだ二代様といわれていた頃、本部の食堂で働くおばちゃんが、ひとりの若者をいっしょに連れてきて、作業の手伝いをさせていた。ある日の夕方、講堂から自室へ帰っていくその若者に出会ったところ、彼はいきなり私の手をとって部屋に引き入れ、いかにも思いつめたようにこう言った。
『俺は今日お祈りをしていて泣けて泣けて仕方がなかった。どうして泣いたと思います? 二代さん、あんたは知らんじゃろうが、実は俺は親を知らんとよ。天涯孤独のみなし児の俺は、おばちゃんに拾われていま善隣教のお世話になっとるんじゃけど、今日のお祈りで御聖経を称(とな)えているうち、俺にもちゃんと親のあることがわかった。どうしてわかったかというと、聖経の中に“神は一元霊にましまして万物の御親祖、故に汝ら総て神の子たるを自覚せよ”という言葉があり、そのあとに“鳴呼天は汝等の父、地は汝等の母”ということが載っとります。あそこば読んどるうち、親は無いと思っていた俺にも、この広い天、この広い地が自分の父母であることがわかって涙が止まらんじゃったとです。二代さん、御教祖様という方は偉かばい。今日は嬉しか』と、若者はなおも嬉し涙にむせびながら感激に眼をかがやかし、握った私の手をなかなか離そうとしなかった。酒好きな彼はこの時もアルコールの臭いをぷんぷんさせてはいたがそれだけに本音が出たのであろう。あの言葉は魂の叫びにちがいない。私はつよい感銘を受けた」。
私はこの体験からいろいろ考えさせられました。父母を知らないひとりの若者が、聖経によって、それを親さまの存在を探し求め覚(さと)り得たときの歓喜はいかばかりだったでしょう。おそらくこれを転機として生きることに張り合いが生まれ彼の人生は一変したにちがいありません。
ところが、それにひきくらべ、ふんだんに父母の愛を受けてはぐくまれた者は、親の有り難さばかりか、天地自然の恵みすら感じなくなって、ともすると人生の正しい針路を見失いとんでもない方向に外れてしまいます。
<天地宇宙を創造し生成成育せしめ給う宇宙の源霊を神と称え奉る>と聖経には示されていますが、善隣の道は、つきつめるとこの天地宇宙を父母と観ずる信仰であります。
御神尊様のご縁につながれば、天地宇宙を親さまと観ずるところまで信仰の高まりを得る。そうなれば見ゆるもの、聞こゆるものすべてに神の存在を体得することができ、そこに計り知れぬ人生のよろこびが生まれます。
善隣の道の教えの根本は言うまでもなく<心は運命の製造者にして生活は運命の製造所なり>です。人間らしい心で人間らしい生活をすれば、誰もが充実した人生をきずけることになっています。
ところが、心の世界というのは複雑で自分の思うようにはならないもの。ですから、理くつでは分かっていてもつい感情に走ってしまいます。こういう私たちですから絶えず自分をみがき、見ゆるもの、聞こゆるものすべて神の境地にまで信仰を高めなければなりません。
それだけの信仰心を培(つちか)い育て、それがしっかり身についたとき、そこに人間らしく生きる道が開けてきます。
要するに信仰は中身の問題でありますが、以上申しあげたことを角度を変えて考えると、善隣の道の信仰は、父母の愛に感謝し、孝養の誠を尽くすこと・・これが入り口となります。ですから、常に父のこと、母のことを思い、有り難さを感じている人間は迷うことなく信仰の本すじをあゆんですんなり幸せをつかむことができます。しかしながら世の中には、父が家庭を破壊したとか、母が不倫を昌したとかで、夫婦別れの悲劇が続出しており、そんな運命に飜弄されて信仰の入り口さえ見つけ出せない人が沢山います。
父母故に心をズタズタに引き裂かれ、何ものも信じられなくなって、感謝どころか父を憎み、母を恨むといった深刻な悩みを抱えた人が少なくないのです。
この人たちはほんとうに気の毒だと思いますが、さりとて親のそんな一面だけで親心そのものを判断することはできません。
子どもに泣きをみせる親ほどむしろ子を思う情は深い。その情と我執とのたたかいに破れ、道を間違えた親のあわれな姿の中に切々たる恩愛を感じる・・そこまでの心の成長を遂げたいものです。
いずれにしても、今日私たちがこうして生きているのは、骨身を削ってはぐくみそだててくださった親さまのおかげであることは、まぎれもない事実です。
その親心に感謝し、孝養の念を父と母に、父方、母方の先祖にささげ、そして大きくは天なる父、地なる母に向かって合掌礼拝する。そのとき私たちは真の親さまの存在を体得し、親さまの大いなる愛に生かされ、永遠の楽しみを授かるのです。
>>>>> 次回は、「みおしえ 8.人生の謎」です。 >>>>>
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